可愛いサプライズ
私にとって「ミニチュア・ボックス」は、かの(インペリアル・イースター・エッグ)にも似たものだ!…なんていうふうに自負しています。すなわち、可愛いサプライズを試みているからです。なんちゃってね!
ともあれ、ここにまた、5つのそれを開けてみました。
2017/07/31
2017/07/27
(組み方がパズル?)のキューブ
これは旧作で、おりがみ仲間では知る人も多いものかも知れませんが、ちょっと変わった形式の(ユニット・キューブ)で、従来のユニットの常識をくずした組み方とて、それがまるで(パズル)のようになったものをご紹介します。
6枚のおりがみで、折り図にて6つのユニットを折り、それを組んで立方体にしてほしいのですが、…さあ、うまく組めますか?
パズル・キューブ。そのユニットの折り方
6枚のおりがみで、折り図にて6つのユニットを折り、それを組んで立方体にしてほしいのですが、…さあ、うまく組めますか?
パズル・キューブ。そのユニットの折り方
上図を3色各2枚の計6枚で折って、キューブに組んでみてください。ただし3色は同形で現れるように。 |
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パズル
2017/07/23
ゼンマイおもちゃ
ロマノフ王朝の秘宝!
動力を(ゼンマイ)とするおもちゃ十数個を、大事にしています。そしてときどき動かして楽しみます。しかし、動きの激しいようなものは壊れやすく、壊れるとほとんど修復出来ません。でも動かなくなっても、その姿がかわいいものは、捨てずにとっています。
これに対して、乾電池で動かすものは、切れた電池を取り出し忘れたりすると、中身がどろどろと溶け出して、…もうそのおもちゃは(ゾンビ)! やっぱゼンマイがいい!
話はころっと変わりますが、ずっと前NHKのテレビで「ロシア ロマノフ王朝 流転の秘宝を追う」という番組を、楽しく見ました。
ロシアに300年の栄華を誇ったロマノフ王朝は、世界で最も裕福な王朝だったのだそうで、宝ものが溢れていたのだそうですが、中でも(秘宝中の秘宝)と称されるのが、皇帝が家族のために、復活祭(イースター)に作らせた「インペリアル・イースター・エッグ」と呼ばれるもので、革命によって王朝が終焉すると、革命政府に没収され、その後この秘宝が世界に散ったとのことで、その行方を追ったのがこの番組です。
全部で(50個)作られ、そのほとんどは何億円もするとか! 実際に制作したのは、王室おかかえの宝石細工師カール・ファベルジェという人で、ヨーロッパから集めた職人たちを指揮する工房で、技術と贅を尽くして作られた卵型の箱の中に、サプライズと呼ばれるミニチュア工芸品が入っているのですが、その中には(ゼンマイ仕掛けの鳥)などもありました。ともかく、一つの卵に、大臣の年収より多くのお金を費やしたとか!
番組では、その最初の方で、スイスの富豪が所有している二つのエッグが紹介されたのですが、それには「スワン」と「くじゃく」のゼンマイ仕掛けのミニチュア玩具が入っているのでした。
ホテルの特別室で、複数のガードマンの警戒する中、このゼンマイ鳥に触ることが許されているただ一人の、スイスの時計職人がゼンマイを巻くと、スワンもくじゃくも、のんびりと羽を広げたり閉じたりしながら歩くのです。そしてテレビで紹介された後は厳重に包装し直され、再び銀行の地下金庫の中で眠るのだそうです!!
確かに見事で、金銀宝石は燦然と輝いていましたが、これが何億円もするとは! 私には私の持っているゼンマイ玩具にこそ魅力を覚えたことです。自由に触って遊べますもんね! ものの価値って、考えると変なものですね。 まあそんな講釈の後、私の秘蔵のゼンマイおもちゃ、クラシックな自転車に乗る紳士を写真紹介します。動画でお見せするともっといいでしょうが、その用意がありませんのであしからず。これ、確か横浜の中華街で買ったものだった。
それからついでに、かわいい「はいはいあかちゃん」と「歩行器のあかちゃん」もお見せします。二人共ゼンマイで元気に歩きます。
動力を(ゼンマイ)とするおもちゃ十数個を、大事にしています。そしてときどき動かして楽しみます。しかし、動きの激しいようなものは壊れやすく、壊れるとほとんど修復出来ません。でも動かなくなっても、その姿がかわいいものは、捨てずにとっています。
これに対して、乾電池で動かすものは、切れた電池を取り出し忘れたりすると、中身がどろどろと溶け出して、…もうそのおもちゃは(ゾンビ)! やっぱゼンマイがいい!
話はころっと変わりますが、ずっと前NHKのテレビで「ロシア ロマノフ王朝 流転の秘宝を追う」という番組を、楽しく見ました。
ロシアに300年の栄華を誇ったロマノフ王朝は、世界で最も裕福な王朝だったのだそうで、宝ものが溢れていたのだそうですが、中でも(秘宝中の秘宝)と称されるのが、皇帝が家族のために、復活祭(イースター)に作らせた「インペリアル・イースター・エッグ」と呼ばれるもので、革命によって王朝が終焉すると、革命政府に没収され、その後この秘宝が世界に散ったとのことで、その行方を追ったのがこの番組です。
全部で(50個)作られ、そのほとんどは何億円もするとか! 実際に制作したのは、王室おかかえの宝石細工師カール・ファベルジェという人で、ヨーロッパから集めた職人たちを指揮する工房で、技術と贅を尽くして作られた卵型の箱の中に、サプライズと呼ばれるミニチュア工芸品が入っているのですが、その中には(ゼンマイ仕掛けの鳥)などもありました。ともかく、一つの卵に、大臣の年収より多くのお金を費やしたとか!
番組では、その最初の方で、スイスの富豪が所有している二つのエッグが紹介されたのですが、それには「スワン」と「くじゃく」のゼンマイ仕掛けのミニチュア玩具が入っているのでした。
ホテルの特別室で、複数のガードマンの警戒する中、このゼンマイ鳥に触ることが許されているただ一人の、スイスの時計職人がゼンマイを巻くと、スワンもくじゃくも、のんびりと羽を広げたり閉じたりしながら歩くのです。そしてテレビで紹介された後は厳重に包装し直され、再び銀行の地下金庫の中で眠るのだそうです!!
確かに見事で、金銀宝石は燦然と輝いていましたが、これが何億円もするとは! 私には私の持っているゼンマイ玩具にこそ魅力を覚えたことです。自由に触って遊べますもんね! ものの価値って、考えると変なものですね。 まあそんな講釈の後、私の秘蔵のゼンマイおもちゃ、クラシックな自転車に乗る紳士を写真紹介します。動画でお見せするともっといいでしょうが、その用意がありませんのであしからず。これ、確か横浜の中華街で買ったものだった。
それからついでに、かわいい「はいはいあかちゃん」と「歩行器のあかちゃん」もお見せします。二人共ゼンマイで元気に歩きます。
しっかりと自転車を漕ぎます。 |
はいはい赤ちゃんは、腰を振って進みます。 |
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おもちゃ
2017/07/19
またも訂正。そして個人史つづき
タイムカプセルは、既に開封されていた!
私の処女出版の「母と子のおりがみの本」が、EXPO’70の松下館に展示された後に、5000年後へのタイムカプセルに収蔵される!ーとの自慢話をし、2個埋設されたものの一つは、50年後に状況確認のために開封されるので、生きていたら見に行きたい、とは(出版履歴…)の項で言ったことです。
と、息子がインターネットでこのことを調べたところ、なんと!ーそれは2000年に既に開封されていた!ーそんな事実を知りました。
どうやら私は30年後を、50年後と錯覚していたらしい。そしてこの最初の開封以後は(100年ごと!の開封)とのこと。なんだ、これでは私はもちろん、息子だって見られない!
さて、こんな事実を知ったところで、私はこの「母と子のおりがみの本」を書いていた頃のことをはっきりと思い出しました。
私のおりがみ個人史 パート2!
私は大学を卒業すると、ある製薬会社の宣伝課に就職しました。薬局へのダイレクトメールの文案を考えるのが最初の仕事で、採用されたそれはすぐに実際に郵送されました。
官製ハガキに(謄写印刷)という、もっとも廉価なスタイルのものですが、入社してすぐの作業が、いきなり全国の薬局に郵送される!ーそれは実に嬉しいことでした。
全社員の前での新入社員挨拶で、率直にそんな嬉しさのことを言いました。そしてそれは、社長にも記憶されていた!とは、辞めるとき聞かされました。
また、電車の車内吊り(水虫薬)の宣伝ポスターの制作で、『あんたの短い足がポスターの枠に収まるので、モデルとしてぴったりだ』なんて、宣伝課のカメラマンに言われ、会社の応接間にてモデルになりました。もちろんズボンに靴下を履いた足と手のモデルで顔など映りません。実はこのカメラマン、学科が違いますが同じ大学の先輩でした。
通勤の電車の中で、このポスターを目にしたときには、「皆さん、これ私の足と手ですよ!」なんて言いたくなった!?
そして次に、「おりがみを使って、風邪薬のコマーシャル動画を作りたい。」との企画書を提出したところ採用され、それが実際に制作され、そして放映されました。絵コンテを描き、そして(コマ撮り用)のおりがみも、(仕事として)折りました。
10日程の、早朝から深夜までのスタジオにての撮影作業は、心の底から嬉しく楽しいものでした。DVDは言うまでもなくビデオも無い時代とて、16mmのフイルムでのモノクロ撮影でしたが、おりがみ動画などほとんど無かった頃ですから、大いに鼻を高くする出来でした。が、そこで宣伝したのが(アンプルに入れた液体風邪薬)で、確か1ヶ月くらい後に、厚生省より、アンプル入りの飲用薬は全面的に(販売禁止)との通達が出され、短い放映期間であったのは残念でした。ガラスの粉末が混入する恐れ、が禁止の理由。
とまあ、とにかく仕事は楽しくてなりませんでした。しかし、朝は(朝星)、夜は(夜星)を仰いでの毎日の勤務生活は、ー今でならブラック企業という類ですが、ー私には仕事は楽しかった。ーでも、肉体的にはやはりしんどく、すごく痩せました。製薬会社ですから栄養剤は無料でもらえ、沢山飲みましたけれど、過労に効きはしません。ーと、そんなところに、おりがみの本の話が来たのです。
実はこの就職前、学生時代の最後の思い出として、4年生のときアルバイトで金を得、それで日比谷公園内の都営画廊という、他の画廊と比べると割安なところで、友人、知人に大いに助けてもらっておりがみの個展を開くこととし、その案内状を、電話帳で調べた出版社などに送っていたことの効果でした。(実はこの画廊での個展との行為は、河合豊彰氏の最初の追っかけ行為でした。河合さんという方は、その頃人気の演歌歌手に容貌が似ておられ、話術は実にみごとで、とても魅力的なキャラクターの方でしたから、追っかけたのですね。
そして嬉しいことに可愛がっても、もらえました。そして元は吉澤章氏のお弟子さんでしたから、吉澤氏のこともいろいろ教えてもらいました。おりがみって、ただ楽しいだけの世界ではないらしい?と、そんな知識も与えられたことでした。いいえ、河合さんから伺う前に、初の個展を開く案内状を吉澤氏に送ったところから、この世界の難しさをしっかりと教えられていたものです!?)
話が寄り道し過ぎましたね。戻ります。
ともあれそんな自己宣伝の効果としての出版依頼だったようです。(内山興正師との関連のことは、後で知ったことです。)
しかし、過労状態の中でのこともあり、躊躇の思いはありましたものの、チャンスは逃がしたくありませんで、引き受けました。深夜12時から2時3時まで図版を描き、7時には起きて出社するという生活を続けたのです。
1ヶ月ほどの後、ともかく1書のまとめが出来て、出版されました。図面の描き方などそれまでまったく知りませんでしたが、どこかで漫画家の方々は黒インクとつけペンで、白いケント紙に描いているのを知っていましたから、それと同じようにして図版を作りました。でも出来た本を見ると、眠気をこらえて描いたことが歴然と出ちゃっていました。
ともかくも、こんな二足のわらじが原因でさらにやせ細ってしまい、結局1年で退社する決心をせざるを得なくなりました。満員すし詰めの通勤電車にも耐えられなくなっていたこともあります。
しかし、辞めたところで、次に何をやるか?の当てなどありません。おりがみを生活の手段にするなど、この頃まったく考えにありませんでした。河合豊彰さんの追っかけは、おりがみ好きがここにも居ますよ!ーそれさえ知ってもらえれば充分のことで、河合さんのようにこれを職業とするような考えはまったくありませんでした。
だから製薬会社を辞めて2年ほどは、今で言う(フリーター)のような生活で、実にいろいろな仕事をしました。一方、1年少し後、盛光社から新たに一書の依頼が入り、今度は落ち着いて作図等出来ました。(「思い出のおりがみ100選」が書名です。)
そしてまた、その半年程後、久保書店という出版社からの依頼があり、「折り紙を楽しむ本」を書きました。ここで初めて(印税契約)がしてもらえ、おぼろげながら、もしかするとおりがみの著述で生活して行けるかな、とそんな思いがちらりと頭を過ぎりましたが、まだ確たる現実感はありませんでした。(この印税契約というもの、ちゃんと印紙が発行部数の通りに渡され、1枚1枚に押印という形式でしたよ! なお、この会社の社長さんは、洞窟探検の趣味をお持ちで、実に男の魅力に溢れた方でした。)
ところで私の初の個展から、3冊の本作りの様子を、じっと暖かく見つめてくださっておられた宮下温氏から、『英文のおりがみ解説書を出してほしいと希望している会社があるが、チャレンジしてみませんか?』と、この上なく嬉しいお話をいただき、そして紹介されたのが日貿出版社です。そして何人もの編集者を前にして、おりがみの理想論などを夢中で語らせてもらって、…まあその結果が、「Creative Origami」という、ずっしりと重い初の英文書と成って実現されましたが、それが1968年の正月でした。
そしてここから、「おりがみの(著述)でやっていけるかも知れないぞ?」という気になったわけです。そして紆余曲折はありましたものの、今に至るという次第。思うに、生まれた時代のタイミングに恵まれたと言うことでしょうかね。
いや、自慢ばかりの個人史、失礼しました。
私の処女出版の「母と子のおりがみの本」が、EXPO’70の松下館に展示された後に、5000年後へのタイムカプセルに収蔵される!ーとの自慢話をし、2個埋設されたものの一つは、50年後に状況確認のために開封されるので、生きていたら見に行きたい、とは(出版履歴…)の項で言ったことです。
と、息子がインターネットでこのことを調べたところ、なんと!ーそれは2000年に既に開封されていた!ーそんな事実を知りました。
どうやら私は30年後を、50年後と錯覚していたらしい。そしてこの最初の開封以後は(100年ごと!の開封)とのこと。なんだ、これでは私はもちろん、息子だって見られない!
さて、こんな事実を知ったところで、私はこの「母と子のおりがみの本」を書いていた頃のことをはっきりと思い出しました。
私のおりがみ個人史 パート2!
私は大学を卒業すると、ある製薬会社の宣伝課に就職しました。薬局へのダイレクトメールの文案を考えるのが最初の仕事で、採用されたそれはすぐに実際に郵送されました。
官製ハガキに(謄写印刷)という、もっとも廉価なスタイルのものですが、入社してすぐの作業が、いきなり全国の薬局に郵送される!ーそれは実に嬉しいことでした。
全社員の前での新入社員挨拶で、率直にそんな嬉しさのことを言いました。そしてそれは、社長にも記憶されていた!とは、辞めるとき聞かされました。
また、電車の車内吊り(水虫薬)の宣伝ポスターの制作で、『あんたの短い足がポスターの枠に収まるので、モデルとしてぴったりだ』なんて、宣伝課のカメラマンに言われ、会社の応接間にてモデルになりました。もちろんズボンに靴下を履いた足と手のモデルで顔など映りません。実はこのカメラマン、学科が違いますが同じ大学の先輩でした。
通勤の電車の中で、このポスターを目にしたときには、「皆さん、これ私の足と手ですよ!」なんて言いたくなった!?
そして次に、「おりがみを使って、風邪薬のコマーシャル動画を作りたい。」との企画書を提出したところ採用され、それが実際に制作され、そして放映されました。絵コンテを描き、そして(コマ撮り用)のおりがみも、(仕事として)折りました。
10日程の、早朝から深夜までのスタジオにての撮影作業は、心の底から嬉しく楽しいものでした。DVDは言うまでもなくビデオも無い時代とて、16mmのフイルムでのモノクロ撮影でしたが、おりがみ動画などほとんど無かった頃ですから、大いに鼻を高くする出来でした。が、そこで宣伝したのが(アンプルに入れた液体風邪薬)で、確か1ヶ月くらい後に、厚生省より、アンプル入りの飲用薬は全面的に(販売禁止)との通達が出され、短い放映期間であったのは残念でした。ガラスの粉末が混入する恐れ、が禁止の理由。
とまあ、とにかく仕事は楽しくてなりませんでした。しかし、朝は(朝星)、夜は(夜星)を仰いでの毎日の勤務生活は、ー今でならブラック企業という類ですが、ー私には仕事は楽しかった。ーでも、肉体的にはやはりしんどく、すごく痩せました。製薬会社ですから栄養剤は無料でもらえ、沢山飲みましたけれど、過労に効きはしません。ーと、そんなところに、おりがみの本の話が来たのです。
実はこの就職前、学生時代の最後の思い出として、4年生のときアルバイトで金を得、それで日比谷公園内の都営画廊という、他の画廊と比べると割安なところで、友人、知人に大いに助けてもらっておりがみの個展を開くこととし、その案内状を、電話帳で調べた出版社などに送っていたことの効果でした。(実はこの画廊での個展との行為は、河合豊彰氏の最初の追っかけ行為でした。河合さんという方は、その頃人気の演歌歌手に容貌が似ておられ、話術は実にみごとで、とても魅力的なキャラクターの方でしたから、追っかけたのですね。
そして嬉しいことに可愛がっても、もらえました。そして元は吉澤章氏のお弟子さんでしたから、吉澤氏のこともいろいろ教えてもらいました。おりがみって、ただ楽しいだけの世界ではないらしい?と、そんな知識も与えられたことでした。いいえ、河合さんから伺う前に、初の個展を開く案内状を吉澤氏に送ったところから、この世界の難しさをしっかりと教えられていたものです!?)
話が寄り道し過ぎましたね。戻ります。
ともあれそんな自己宣伝の効果としての出版依頼だったようです。(内山興正師との関連のことは、後で知ったことです。)
しかし、過労状態の中でのこともあり、躊躇の思いはありましたものの、チャンスは逃がしたくありませんで、引き受けました。深夜12時から2時3時まで図版を描き、7時には起きて出社するという生活を続けたのです。
1ヶ月ほどの後、ともかく1書のまとめが出来て、出版されました。図面の描き方などそれまでまったく知りませんでしたが、どこかで漫画家の方々は黒インクとつけペンで、白いケント紙に描いているのを知っていましたから、それと同じようにして図版を作りました。でも出来た本を見ると、眠気をこらえて描いたことが歴然と出ちゃっていました。
ともかくも、こんな二足のわらじが原因でさらにやせ細ってしまい、結局1年で退社する決心をせざるを得なくなりました。満員すし詰めの通勤電車にも耐えられなくなっていたこともあります。
しかし、辞めたところで、次に何をやるか?の当てなどありません。おりがみを生活の手段にするなど、この頃まったく考えにありませんでした。河合豊彰さんの追っかけは、おりがみ好きがここにも居ますよ!ーそれさえ知ってもらえれば充分のことで、河合さんのようにこれを職業とするような考えはまったくありませんでした。
だから製薬会社を辞めて2年ほどは、今で言う(フリーター)のような生活で、実にいろいろな仕事をしました。一方、1年少し後、盛光社から新たに一書の依頼が入り、今度は落ち着いて作図等出来ました。(「思い出のおりがみ100選」が書名です。)
そしてまた、その半年程後、久保書店という出版社からの依頼があり、「折り紙を楽しむ本」を書きました。ここで初めて(印税契約)がしてもらえ、おぼろげながら、もしかするとおりがみの著述で生活して行けるかな、とそんな思いがちらりと頭を過ぎりましたが、まだ確たる現実感はありませんでした。(この印税契約というもの、ちゃんと印紙が発行部数の通りに渡され、1枚1枚に押印という形式でしたよ! なお、この会社の社長さんは、洞窟探検の趣味をお持ちで、実に男の魅力に溢れた方でした。)
ところで私の初の個展から、3冊の本作りの様子を、じっと暖かく見つめてくださっておられた宮下温氏から、『英文のおりがみ解説書を出してほしいと希望している会社があるが、チャレンジしてみませんか?』と、この上なく嬉しいお話をいただき、そして紹介されたのが日貿出版社です。そして何人もの編集者を前にして、おりがみの理想論などを夢中で語らせてもらって、…まあその結果が、「Creative Origami」という、ずっしりと重い初の英文書と成って実現されましたが、それが1968年の正月でした。
そしてここから、「おりがみの(著述)でやっていけるかも知れないぞ?」という気になったわけです。そして紆余曲折はありましたものの、今に至るという次第。思うに、生まれた時代のタイミングに恵まれたと言うことでしょうかね。
いや、自慢ばかりの個人史、失礼しました。
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EXPO’70 タイムカプセル,
つぶやきエッセー
2017/07/15
花鳥風月
合同展の思い出
ずっと以前、友人の芸術家たちの合同展覧会に誘われて、おりがみで参加させてもらったことがあります。その友達とは、陶芸家、書道家、七宝作家、レザークラフト作家、などの芸術家たちです。中で親分肌の書道家の、その色気のある書に魅せられて、彼のアトリエで筆の使い方などを楽しく教わったものです。そして稽古の後は全員で酒を楽しむ!
さてここで少々困ったのは、…会場費などの負担は、みんなは(作品)を売って、それにより費用を賄うことが出来ますが、おりがみでは作品は無くはありませんが、折ったものに値段を付けて売るようなことは、当時の私としては、「理想に反する!?」と思っていました。
つまりは、おりがみって(折り方のプロセスを楽しむもの=自分の手で折るもの)それが第一であって、折り上がったものが作品(=商品)となるようなことは、当時ほとんど考えられない思いになっていたのです。(…ただし、若くて大いに蛮勇を持っていた頃、河合豊彰さんという十歳ほど年長であられた、おりがみ“作家!?”を、追いかけていました。そこで、同氏と同じく銀座でおりがみの個展を開いたのですが、そのときは、これまた同氏を真似て、“売るためのおりがみ作品”を一心に考え、…“マイカ・ウォール”という特殊な壁紙で折ることを考え、そして実際に数点買ってもらえて、なんとか会場費が出ましたが、その折ったものがいつまで形を保っていてくれるか?…そのことには懸念があったのです。)
例えて言えば、生け花展で、その生けた花を売ること!…そんなことが考えられないのと同じだとの思いが強くなっていたのです。つまりもう蛮勇は無くなっていたのです。で、その頃ある化粧品メーカーからの依頼で製作した「おりがみのビデオテープ」などを売ることにしたりしましたが、…思うようには行きませんでした。また良い思い出の中にあった「ミニチュア・ボックス」に、値段を付けてみたりもしましたが、これまたまったく失敗で、やるべきではなかったと、今更ながら後悔しています。
いずれにしましても、前もってそのことは相談し、皆は配慮してくれて、会場入り口に在った可愛いショーウインドウに、おりがみを飾るというようなことなどで、負担軽減をしてくれたわけです。
ところでこの合同展には、具体的なテーマといったものはありませんで、楽しい飲み友だちの、ある種(恒例のお祭り)のようなものだった、とそう私は受けとめていたものなのです。しかし、かといって入り口のショーウィンドウを飾るなら、その飾るおりがみについては、やはり共通するテーマ的なものでないと、などと考えていたところ、…「花鳥風月みたいなのは?」とのサゼッションをいただいたこともあり、…確かに陶芸も、書道も、七宝も、レザークラフトも、いずれも永い伝統を有する芸術で、そんな古来からの美意識の中での、基本的モチーフとしての(花鳥風月)ならば、確かに納得出来るテーマでした。
…でも、(花鳥)はおりがみにおいて得意とするところですが、(風月)は!?…ことに「風」という無形のものをどうする?…そこで考えたのが「こいのぼり」でした。そして「月」は「三日月」の形とすることとしました。
花は「牡丹」、鳥は「おしどりのカップル」、以上で私の「花鳥風月」、かくのごとくにて一件落着となりました!?
下にその頃を思い出して作ったものに、最近のくふうを加えてご紹介します。
ずっと以前、友人の芸術家たちの合同展覧会に誘われて、おりがみで参加させてもらったことがあります。その友達とは、陶芸家、書道家、七宝作家、レザークラフト作家、などの芸術家たちです。中で親分肌の書道家の、その色気のある書に魅せられて、彼のアトリエで筆の使い方などを楽しく教わったものです。そして稽古の後は全員で酒を楽しむ!
さてここで少々困ったのは、…会場費などの負担は、みんなは(作品)を売って、それにより費用を賄うことが出来ますが、おりがみでは作品は無くはありませんが、折ったものに値段を付けて売るようなことは、当時の私としては、「理想に反する!?」と思っていました。
つまりは、おりがみって(折り方のプロセスを楽しむもの=自分の手で折るもの)それが第一であって、折り上がったものが作品(=商品)となるようなことは、当時ほとんど考えられない思いになっていたのです。(…ただし、若くて大いに蛮勇を持っていた頃、河合豊彰さんという十歳ほど年長であられた、おりがみ“作家!?”を、追いかけていました。そこで、同氏と同じく銀座でおりがみの個展を開いたのですが、そのときは、これまた同氏を真似て、“売るためのおりがみ作品”を一心に考え、…“マイカ・ウォール”という特殊な壁紙で折ることを考え、そして実際に数点買ってもらえて、なんとか会場費が出ましたが、その折ったものがいつまで形を保っていてくれるか?…そのことには懸念があったのです。)
例えて言えば、生け花展で、その生けた花を売ること!…そんなことが考えられないのと同じだとの思いが強くなっていたのです。つまりもう蛮勇は無くなっていたのです。で、その頃ある化粧品メーカーからの依頼で製作した「おりがみのビデオテープ」などを売ることにしたりしましたが、…思うようには行きませんでした。また良い思い出の中にあった「ミニチュア・ボックス」に、値段を付けてみたりもしましたが、これまたまったく失敗で、やるべきではなかったと、今更ながら後悔しています。
いずれにしましても、前もってそのことは相談し、皆は配慮してくれて、会場入り口に在った可愛いショーウインドウに、おりがみを飾るというようなことなどで、負担軽減をしてくれたわけです。
ところでこの合同展には、具体的なテーマといったものはありませんで、楽しい飲み友だちの、ある種(恒例のお祭り)のようなものだった、とそう私は受けとめていたものなのです。しかし、かといって入り口のショーウィンドウを飾るなら、その飾るおりがみについては、やはり共通するテーマ的なものでないと、などと考えていたところ、…「花鳥風月みたいなのは?」とのサゼッションをいただいたこともあり、…確かに陶芸も、書道も、七宝も、レザークラフトも、いずれも永い伝統を有する芸術で、そんな古来からの美意識の中での、基本的モチーフとしての(花鳥風月)ならば、確かに納得出来るテーマでした。
…でも、(花鳥)はおりがみにおいて得意とするところですが、(風月)は!?…ことに「風」という無形のものをどうする?…そこで考えたのが「こいのぼり」でした。そして「月」は「三日月」の形とすることとしました。
花は「牡丹」、鳥は「おしどりのカップル」、以上で私の「花鳥風月」、かくのごとくにて一件落着となりました!?
下にその頃を思い出して作ったものに、最近のくふうを加えてご紹介します。
花=牡丹 |
鳥=おしどりカップル |
風=こいのぼり |
月=三日月に乗る唐子 |
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つぶやきエッセー
2017/07/11
親子の姿
私の(おりがみ個人史?)
ある日、先輩宮下温(あつし)さんが言いました。『あなたは鳥やどうぶつの作品を、よく(親子の姿)として発表していますが、そんな作例を見ていると、親から大事にされているからだと思いますが、そうでしょう!』
世田谷区の豪徳寺にお住まいの宮下さんは、同じ世田谷区の代沢(利用駅は下北沢)に実家の在った私からは、歩いて30分くらいの距離に居られ、…でもお歳は、実に私の母と同じという方!ですが、おりがみでは、同志のお付き合いをさせていただいたことではあります。
有名な製菓会社の樺太支店長を勤められたと伺いましたが、個人的なご趣味では、おりがみの他に、フレンチホルンの演奏と伺い、…『半音階のドレミファを正確に発声することが出来るのです。』と、それがご自慢でした。
また『ソニーの(ウォークマン)っていうのはすごいですね!頭の真ん中で音が響くんですよ!』こんな話を伺い、音楽好きの私も、少し後にウォークマンを買いました。確かに宮下さんの言われる通り、音は頭の真ん中にずんずんと響きました。…いや閑話休題。
古典資料「かやら草」のこと、明治や大正時代の(伝承作例)のこと、また吉澤章氏のこと、河合豊彰氏のこと、そしてそのお弟子さん方の活動の様子など、いろいろな情報を教えてくださいました。そして、やがてそのお弟子さんたち何人かの方たちの、独立行動の場に紹介されました。そこから私も「創作おりがみグループ’67」という、初の組織活動に参加して行くことになるのですが、そのきっかけを作ってくれたのが宮下氏でした。
そのグループのメンバーのお一人、(ユニットおりがみ)の先駆けとなる「カラー・ボックス」の作者、薗部光伸さんが愛情を込めて呼んでいた『不思議な老人』とのネーミングがぴったりのお方でした。そしてその集まりには、宮下さんと同年代の高濱利惠さんも居られ、…まあ、このリーダー的なお二人が、そこに良き絆(きずな)的な雰囲気を作ってくれたのだと思っています。
そしてそんな不思議な老人、宮下さんとの最初の出会いは、これまた世田谷の実家のすぐ近くに勤務会社が在ったことで知り会えた、不思議なご縁の中西康夫氏がある日のこと『内山興正師が、京都から、近く東京田無のご実家に帰られるとの情報を得ましたので、君を連れて行ってあげよう。』とて連れられて内山先生のご実家に伺った折、…そこに宮下さんも訪問されておられて、知り会えたのです。なおこの中西氏は、私の兄と同じ歳の方です。(この場には、もうお一人、貝のスペシャリスト、池尻博之氏が居られました。
この方はマルチ人間で、きわめて多くの、私には未知の分野の話を聞かせてくださり、私の目を開かせてくださいました。そして私には、プレゼントしていただいた美しい貝のコレクションのいくつかが残されたことです。)
さて話は個人の思い出に傾いてしまいましたが、…『親から大事にされているからでしょう」と、そんな宮下さんのご指摘に加え、4人兄弟での私は、姉・兄・姉・私の上3人が7、5、3との2歳違いなのに、末っ子の私だけ9歳も離れていましたから、3人の兄姉からも両親からも大いに可愛がられたのです。まあ宮下さんのご指摘通りかどうかはともかくも、私は実にしばしば、どうぶつや鳥を(親子の情景)として作りました。
だって、親子の表情ほど魅力的なテーマはありませんから。かくていずれそんな親子の情景のあれこれを紹介するつもりですが、今回は一つの例を、その出会いのエピソードと共にご紹介します。
それは1991年のこと、私の2度目の海外経験のとき、その地、ブラジルのサンパウロで、私が希望した「動物園を見たい!」を聞き入れてくださり、やさしく、そしてしっかりと案内をしてくださったのが、素敵な金ヶ江真里さんです。そしてそこで目にしたのが、背中にこどもを乗せて歩く「オオアリクイ」の姿でした!
帰国して少し後にくふうしたのが、その「オオアリクイの親子」でした。写真がそれです。この生物の毛の色などは、単純なものではありませんでしたものの、それはパンダのように際立った個性とも思われませんでしたので、おりがみでは、全体としての表情表現で良いとの判断からくふうしたものです。
ある日、先輩宮下温(あつし)さんが言いました。『あなたは鳥やどうぶつの作品を、よく(親子の姿)として発表していますが、そんな作例を見ていると、親から大事にされているからだと思いますが、そうでしょう!』
世田谷区の豪徳寺にお住まいの宮下さんは、同じ世田谷区の代沢(利用駅は下北沢)に実家の在った私からは、歩いて30分くらいの距離に居られ、…でもお歳は、実に私の母と同じという方!ですが、おりがみでは、同志のお付き合いをさせていただいたことではあります。
有名な製菓会社の樺太支店長を勤められたと伺いましたが、個人的なご趣味では、おりがみの他に、フレンチホルンの演奏と伺い、…『半音階のドレミファを正確に発声することが出来るのです。』と、それがご自慢でした。
また『ソニーの(ウォークマン)っていうのはすごいですね!頭の真ん中で音が響くんですよ!』こんな話を伺い、音楽好きの私も、少し後にウォークマンを買いました。確かに宮下さんの言われる通り、音は頭の真ん中にずんずんと響きました。…いや閑話休題。
古典資料「かやら草」のこと、明治や大正時代の(伝承作例)のこと、また吉澤章氏のこと、河合豊彰氏のこと、そしてそのお弟子さん方の活動の様子など、いろいろな情報を教えてくださいました。そして、やがてそのお弟子さんたち何人かの方たちの、独立行動の場に紹介されました。そこから私も「創作おりがみグループ’67」という、初の組織活動に参加して行くことになるのですが、そのきっかけを作ってくれたのが宮下氏でした。
そのグループのメンバーのお一人、(ユニットおりがみ)の先駆けとなる「カラー・ボックス」の作者、薗部光伸さんが愛情を込めて呼んでいた『不思議な老人』とのネーミングがぴったりのお方でした。そしてその集まりには、宮下さんと同年代の高濱利惠さんも居られ、…まあ、このリーダー的なお二人が、そこに良き絆(きずな)的な雰囲気を作ってくれたのだと思っています。
そしてそんな不思議な老人、宮下さんとの最初の出会いは、これまた世田谷の実家のすぐ近くに勤務会社が在ったことで知り会えた、不思議なご縁の中西康夫氏がある日のこと『内山興正師が、京都から、近く東京田無のご実家に帰られるとの情報を得ましたので、君を連れて行ってあげよう。』とて連れられて内山先生のご実家に伺った折、…そこに宮下さんも訪問されておられて、知り会えたのです。なおこの中西氏は、私の兄と同じ歳の方です。(この場には、もうお一人、貝のスペシャリスト、池尻博之氏が居られました。
この方はマルチ人間で、きわめて多くの、私には未知の分野の話を聞かせてくださり、私の目を開かせてくださいました。そして私には、プレゼントしていただいた美しい貝のコレクションのいくつかが残されたことです。)
さて話は個人の思い出に傾いてしまいましたが、…『親から大事にされているからでしょう」と、そんな宮下さんのご指摘に加え、4人兄弟での私は、姉・兄・姉・私の上3人が7、5、3との2歳違いなのに、末っ子の私だけ9歳も離れていましたから、3人の兄姉からも両親からも大いに可愛がられたのです。まあ宮下さんのご指摘通りかどうかはともかくも、私は実にしばしば、どうぶつや鳥を(親子の情景)として作りました。
だって、親子の表情ほど魅力的なテーマはありませんから。かくていずれそんな親子の情景のあれこれを紹介するつもりですが、今回は一つの例を、その出会いのエピソードと共にご紹介します。
それは1991年のこと、私の2度目の海外経験のとき、その地、ブラジルのサンパウロで、私が希望した「動物園を見たい!」を聞き入れてくださり、やさしく、そしてしっかりと案内をしてくださったのが、素敵な金ヶ江真里さんです。そしてそこで目にしたのが、背中にこどもを乗せて歩く「オオアリクイ」の姿でした!
帰国して少し後にくふうしたのが、その「オオアリクイの親子」でした。写真がそれです。この生物の毛の色などは、単純なものではありませんでしたものの、それはパンダのように際立った個性とも思われませんでしたので、おりがみでは、全体としての表情表現で良いとの判断からくふうしたものです。
オオアリクイの親子 |
2017/07/07
パピルスのこと
1999年のこと、アメリカのPCOC(Pacific Coast Origami Conference=愛称ピーコック=くじゃく)の集まりにお招きいただきました。そのとき、地元の研究機関において、植物のパピルスを栽培し、そこからパピルス紙を作ることを実践されているのを見学するツアーに参加させていただきました。すごく嬉しい体験でした。
ところでこれは余談ですが、…「パピルス」は日本語で、英語だと「パパイラス」って言うんですね。似た経験は、恐竜の「トリケラトプス」のことは、「トライセラタプス」と言ってくれとは、アメリカのおりがみ名人、ジョン・モントロールさんからのご教示でした。『ギョヨテとは、おれのことかとゲーテ言い。』昔聞いた笑い話です。ともかく私は語学が苦手ですが、今はおりがみが、十分共通語の働きをしてくれています。だからあまり不自由は感じません。パソコンの翻訳機能もかなり進歩していると聞きます。
まあそんな話はともかく、図鑑などで「パピルス」の様子を見ると、それをもし折るなら、ぱりん!と割れてしまうように思っていました。ところが上記のパピルス体験ツアーの後で、サンフランシスコの大きな文房具屋さんに、連れて行ってもらいましたら、なんと! 大判のパピルスを売っていました。もちろんすぐに買いました。
ただ、折ることは無理との先入観がありましたから、1枚しか買いませんでした。そして日本に帰って数日後、これを小さな正方形に切って、折ってみましたところ、…ああ、実に気持ちよく折れるではありませんか!
エジプトで作られていたパピルスと、サンフランシスコで復刻生産されているパピルスとが、同じものかどうかは判りませんが、…でも、古来植物の(葉、ないしは茎)は、組み、編み、織り、そして折ることを可能としてきました。だからパピルスが折ると割れるなどの思い込みこそ誤りだったようです。
ところでこれは余談ですが、…「パピルス」は日本語で、英語だと「パパイラス」って言うんですね。似た経験は、恐竜の「トリケラトプス」のことは、「トライセラタプス」と言ってくれとは、アメリカのおりがみ名人、ジョン・モントロールさんからのご教示でした。『ギョヨテとは、おれのことかとゲーテ言い。』昔聞いた笑い話です。ともかく私は語学が苦手ですが、今はおりがみが、十分共通語の働きをしてくれています。だからあまり不自由は感じません。パソコンの翻訳機能もかなり進歩していると聞きます。
まあそんな話はともかく、図鑑などで「パピルス」の様子を見ると、それをもし折るなら、ぱりん!と割れてしまうように思っていました。ところが上記のパピルス体験ツアーの後で、サンフランシスコの大きな文房具屋さんに、連れて行ってもらいましたら、なんと! 大判のパピルスを売っていました。もちろんすぐに買いました。
ただ、折ることは無理との先入観がありましたから、1枚しか買いませんでした。そして日本に帰って数日後、これを小さな正方形に切って、折ってみましたところ、…ああ、実に気持ちよく折れるではありませんか!
エジプトで作られていたパピルスと、サンフランシスコで復刻生産されているパピルスとが、同じものかどうかは判りませんが、…でも、古来植物の(葉、ないしは茎)は、組み、編み、織り、そして折ることを可能としてきました。だからパピルスが折ると割れるなどの思い込みこそ誤りだったようです。
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素材の話
2017/07/03
ミニチュア・ボックス
伏見先生ご夫妻の思い出
その昔、伏見先生ご夫妻が金婚式を迎えられたとき、新宿のかわいいレストランに、前川淳さん、川崎敏和さん、布施知子さん、そして私の4人が招待されました。まったく夢にも思わぬことでした!
なにかお祝いを考えなくてはと、そう思いましたが、伏見先生とはおりがみによっての繋がりですから、相談して、「やはり、おりがみでしよう!」とて、3人はそれぞれ最新の自信作を持って来る、となりました。
でも最年長の身には、それでは済まない気がしたものですから、新作旧作取り混ぜて、ちょっとした情景を構成したものを、おりがみの(小箱)の中に入れたもの、それを金婚式の数字に合わせて(50個)作って持参しました。
食事の後、箱を開けてもらい、先生ご夫妻は元より、3人も目を輝かせてくれたことでした。そうそう、実はこのとき、私の2回目のブラジル派遣訪問で、サンパウロにて親身のお世話をいただいた、当地在住の光田八千代さんも居られてびっくりしたのですが、伺えば伏見満江夫人と光田さんとは、大学の同級生であられたとのこと! そして光田さんも喜んでくださったことです。
とまあこうして、思った以上にお喜びいただけたことから、その後もこんな小箱作りを楽しむようになり、何年か続けるうちに、その数は200以上になりました。今はこれらを「ミニチュア・ボックス」と呼んでいますが、…でも現在はもう、こういう細かい作業はほとんど出来なくなりましたので、たまに保存しているこれらを開けて見て、指が自由自在に動かせた頃を懐かしんでいます。そこで皆さんにも、それらを時折ご披露してみましょう。
既に、「天女」と「ミツバチと蜂の巣」の2つをご披露してありますが、今回は3つのミニチュア・ボックスを開けてみました。
蟷螂の斧(1枚折りのカマキリ。切り込み有り。) 「おりがみ新発見3 日貿出版社」に収録しています。 |
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生きものの姿